何ヶ月の間か、それとも何年にも及ぶのか、それはまだ判らない




       「…ここが、これから私の住む処なのね…。」




       凍てついた風は、私の身体から温もりと僅かな湿度を奪って吹き過ぎて行く
       風に色が付いているという事象が有り得るとしたら、今私の顔に吹き付けるそれを指すのだろうか
       純白の衣を纏ったブリザードは、忽ちのうちに辺りの視界を狭めて行く
       一寸先は巨大なクレバスかもしれない、はたまた深い闇かもしれない

       私は、ゴクリ、と音を立てて喉を鳴らした
       …私の人生が、今此処から始まりを迎えるのだ



       「…そうだ。此処がこれからお前の生きる場所だ。よく刻み付けておくことだ、この景色を。」



       男の髪が、強い風に靡いた



       「…尤も、この嵐ではそれすらも満足には見えんがな。」


       凍てついた風の先を睨むように、男は口の端を微かに上げて笑った




















                          天上の蒼


















       「、先生が呼んでたよ。…なんか用事があるんだってさ。」


       同級生のが、私を呼び止めた


       「…先生が?何の用事だろう?…また、学会の発表原稿のダメ出しかなぁ。」

       「さあ、どうなんだろね。…なんか急いでる様子ではあったけど。取り敢えず早めに行ってみたら?」

       「…うん、判った。ありがとね、。」


       私は自分の机のある院生室の扉を開けた







       此処は、とある大学の研究室
       私は、此処で海洋生物学を研究する大学院生だ

       大学院は、研究を更に続けたい者が学部を出た後入るところで、更に修士課程と博士課程の二つの課程に分けられる
       修士は2年、博士は3年
       修士課程を修了すると修士号(マスター)が貰える
       その後、まだ研究を続ける者は、その先の博士課程に進むのである
       (修士課程を「博士課程前期」、博士課程を「博士課程後期」と総称する大学も多い)

       …と記述するとなんだか凄いように思えるかもしれないけど、最近の大学はどこも大学院の重点化が推進され、
       学部を出たあと院に進む学生の数は着実に増え続けている
       特に理科系の学部ではその傾向が強く、今や修士を出る位は当たり前状態になりつつあるのも事実である
       私も、その風潮に押されて修士課程に進学したことは否めない

       企業などに就職をする場合、次の博士課程に進むよりもその手前の修士課程を出ている学生の方が一般的には有利である
       何故なら、博士課程は基本的には「大学などのアカデミック(学術研究)向きの研究者を養成する」ことが主目的であるため、
       より研究テーマが微に入り細を穿ったものとなる
       その結果、確かに専門性は高まるものの、企業の「多岐にわたる研究テーマ」には不向きになってしまう
       つまるところ、「使い難い」人材として扱われる可能性が高い

       また、個人の性格にもよるが、博士課程まで行ってしまうと研究内容に対する拘りが強く、
       よりアカデミックな研究を好む風潮が強くなるため「利潤を追求することを主とした企業の研究などやっていられるか!」と思う者も多いようだ
       結局のところ「博士課程に進むのは学者になるため」であり、学生本人も、また企業側も採用を敬遠しがちであるという事実が残る

       更に言及すれば、年齢の問題もあるだろう
       学部からストレートに上がった場合、修士課程を終えるのは24歳だが、博士課程を終えるのはその3つ上の27歳だ
       勿論、大学に入るために浪人していればそれだけ実年齢もプラスされるし、修士課程や博士課程に入るにも院試があるので、
       合格しなければその分だけ年を取ってしまう
       ともかく、30歳前後となると企業側としては敬遠材料になりがちである
       …これが男性ならまだしも、女性である場合は尚更であるのが大学院生の悲しい現状である


       何故こんな長ったらしい話をしたかと言えば、それが私が現在置かれている状況だからに他ならない
       今現在、私は修士課程の二年目(M2と呼ぶ)の立場にいる
       研究もこなし、学会の発表もいくつか終えたし、修士論文もあらかた書き終えている
       このまま博士課程に進むのにも何ら支障は無い
       …だけど、どうにも踏ん切りが付かない
       このまま更に進学した方が良いのか、それともどこかに就職した方が良いのか
       博士課程に進めば、もう二度と後戻りは出来なくなるし、学費も更に掛かる
       …そこまでしてアカデミックに残りたいわけでもない








       「世の中の役に立つ人になりなさい」







       こんな時、父の言葉が脳裏を過ぎる

       私が海洋生物学を専攻したのも、海上保安庁に勤めるこの父の影響が強い
       勤めの都合上、家を空けることの多い父だったが、その分私を可愛がってくれた
       …だが、その「世の中の役に立つ」ために、私は一体どっちの方向に進んで良いのか判らない
       そう思うと、研究にも力が入らない日々が続いていた











       コンコン

       私は、先生の部屋のドアを軽くノックした


       「はい」

       中から、抑揚の無い低い声が聞こえた


       「…です。」

       「ああ、入りなさい。」


       挨拶のような短い応酬の後、私はドアを開け、中へと足を踏み入れた


       …大学の教官の部屋と言うものは、大概2種類に分けることができる
       一つは、一分の乱れもなくきっちりと整理された部屋
       そしてもう一つは、ゴミ溜めのように散らかった部屋だ
       尤も、後者の部屋に付いては「その無秩序の中にこそ一つの秩序が存在するのだ」などという持ち主の主張をよく耳にする

       先生の部屋は、前者だった
       無駄な処が無く綺麗に纏められた部屋は、主の理路整然たる思考をそのまま体現したかのようである

       掃除の行き届いた大きなスチール机の向こうで、窓の外を見ていた先生が、俄に振り返った


       「…突然だが、君、君はこのまま博士(課程)に残るのかね?」

       「……あ…まだ決め兼ねております……。」


       普段は雄弁な私も、事進路の話となるとしどろもどろになってしまい、視線も下を向いてしまう


       「う――ん、そうかね。」


       煮え切らない態度から、私の言葉があながち嘘ではないと悟ったのか、先生も一瞬唸った
       季節の移り変わりに合わせたのか、設えられたばかりのストーブの上に置かれたケトルからうっすらと白い湯気が音を立てて発される
       ケトルの赤い色と湯気の色のコントラストが私の目に付いた
       暫しの空白の後、先生は再び口を開いた


       「君、きみ、就職してみるつもりはないかね?」

       「…え?就職……ですか?」


       先生からの突然のオファーに、私は正直面食らった
       凍り付くという程ではないが、思考が一瞬止まり掛けたことも事実だった


       「いや、私の知り合いからのツテでね。一人、学生を寄越して欲しいそうなんだよ。
        …勿論、研究職だ。アカデミックとは少し路線が離れてしまうが、大きな企業の研究所だよ。」


       先生の一言一言を噛み締めて理解しようと押し黙っていると、先生は続けた


       「君はもう修論(修士論文)も殆ど書き上がっているし、後は口頭試問(論文提出後に開かれる審査会のようなもの。
        他の学生も聴講可能な発表会・ポスター発表形式や、教官陣だけを相手に発表をするクローズ審査方式などがあり、
        大学によって細かい様式は異なる)くらいしか残っていないだろう。
        …向こうはね、なるべくすぐ来て欲しいんだそうだ。なんでも欠員が急に出たとかでね。
        …勿論、このまま博士に進んでも良い。君の成績と研究能力ならそれも充分可能だ。
        だが、そうすると後3年以上はまだ学生を続けなくてはいけない。
        大学関係の空きポストが見付かるまでには更に一年以上は待たされるだろう。
        その点、向こうに入れば、企業とは言え第一線で今すぐ研究に携わることができる。
        君にとって決して悪い話じゃないと思うのだが…どうだろうか?」


       …突然社会に出ろと言われて、驚かない訳は無い
       が、このまま大学に残るのも今ひとつ決心がつかない
       この数ヶ月悩み続けていたことに、急に答えを出すよう求められて私はまごついた
       …いずれは決断の時がやって来るとは薄々思ってはいたけれども


       ドラマのセオリー通り、暫く返答を待ってもらおうかと私が口を開きかけた時、先生がぽつりと呟いた



       「…世間に貢献する手段と言うのは、それこそ星の数ほどあるものだ。
        我々は、ともすれば学問の世界の中だけに視点が向きがちだが、外の世界に住む人間のほうが遥かに多い以上、
        外の世界に身を置いてみることがその近道なのかもしれないな……。」


       ようやく聞こえるかどうかの小さな呟きだったが、その言葉は私の心の中にみるみる広がって吸収されて行った

       …「世の中の役に立つ人になりなさい」
       父の言葉と、先生の今の言葉が私の胸の奥で静かにシンクロして収束した




       …そうだ
       私は世間の役に立ちたいのだ
       微力でも良い
       この私で力になれるのであれば






       「先生」


       私は顔を上向けると、一歩前へと踏み出した


       「先生、私、行きます。…その研究所に。
        …行かせて下さい!」


       言い終えると同時に、胸の内側がスカッと晴れ渡った
       この数ヶ月、胸の隅をどんよりと曇らせていたものが一掃されたような心地がした
       なんと痛快なのだろう
       鬱積した忸怩たる思いが、言葉と共に胸から総て外へと出て行ったようだ


       「…そうか。行ってくれるか。
        …君なら大丈夫。きっと立派に世間の役に立ってくれるだろう。
        僕は、そう祈っている。」


       ポン、と先生が私の肩を軽く叩いた


       「では、先方には僕の方から連絡を入れておくから。」

       「…はい。では失礼します。」


       くるりと踵を反し、私は先生の部屋を出た
       ドアを静かに閉めた次の瞬間、私は目の前の窓の向こうに広がる空を見上げた
       冬晴れの空は、寒々として晴れ渡っていた

       …そうだ、私はこれから世界へと羽ばたくのだ

       頑張るぞ、そう自分に言い聞かせた
       歩き出すその足取りは、先生の部屋に向う時とは反比例するかのように軽く感じられた








       二ヵ月後、修士論文を提出し、口頭試問も終えた私は、修了式(学部の卒業式に当る)を待たずに研究所へと赴任した








<BACK>       <NEXT>